御本尊・文化財

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淨安寺御本尊阿弥陀如来

室町・鎌倉時代に作成された由緒ある仏像

御本尊

阿弥陀如来

本尊

淨安寺御本尊

阿弥陀如来像(平安時代の建造)

浄安寺の本尊は中央須弥壇に安置される阿弥陀如来像の真後ろにある位牌所の中央に安置されている。光背、蓮座は後世の作であるが、平安時代の作とされる木造の阿弥陀如来坐像である。

岩槻大仏

木造阿弥陀如来像

須弥壇中央に安置された木造阿弥陀如来は中位で印を結ぶ珍しい姿の坐像である。改修の時に修理され、頭部に墨書が発見された。江戸時代中期の作。
なお、この阿弥陀如来坐像は同町内にあった観音寺の本尊で、その巨大な像容から「岩槻大仏」といわれたという。

 
岩槻大仏

所蔵文化財

さいたま市指定記念物

 
高力1

高力2

高力清長の墓

さいたま市指定記念物

天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅ぶと、岩槻城主太田氏房も城を追われ、やがて関東の領主となった徳川家康は、高力清長を二万石で岩槻城主として封じた。
 高力氏は熊谷直実を祖とし、清長の祖父重長が三河国高力郷に住んだ頃から高力氏を称し、徳川家康の祖父松平清康に仕えた。清長は享禄三年(1530)三河に生まれ、幼いときから家康に仕え、数々の武功を挙げた。
 永禄六年(1563)三河国一向一揆鎮圧のとき、寺院の仏像・経巻を破損することなくそれぞれの寺院に返したため、人々より『仏高力』と呼ばれるようになり、永禄八年には本多重次、天野康景とともに奉行職に就いている。
 天正十八年八月に岩槻城主に封じられた清長は、落城により城下町から離散した領民の還住を促し、村々の復興に努めるとともに、領内の有力寺社の懐柔にも努めた。慶長六年(1601)城下の市宿町に市の掟書を発して、市の保護や振興を図り、同七年には粕壁に新宿取立ての文書を発して宿駅の整備を行っている。
 このように清長は、戦国時代の武将として生まれながら、性格は清廉潔白、官僚的才能を生かし、戦乱によって荒廃したこの地域の復興に尽力した。清長の性格を表する記録『新編武蔵風土記稿』の「針ヶ谷村」の項にある。
 「当村慶長の頃は中村弥右衛門支配すると、按ずるに御入国の後高力河内守清長は岩槻の城二万石を賜はり、且浦和郷一万石の代官を命ぜらる。しかるに清長性廉実直なる人なれば、家人中村弥右衛門を命じて浦和郷の代官とならしめ、直ちに江戸の官倉に納めしめ、弥右衛門をば官家に仕ふまつらしめ、己が臣とせざる由彼の家譜に見えたり。弥右衛門は後召出されて御家人となれりと、去は当村弥右衛門支配すといへど、其実は清長支配せしもにて、召出されしのちは弥右衛門支配所となりしなるべし。且浦和郷一万石の代官とあれば、其頃この浦和郷に属せしことしらる。」
 浦和郷一万石を預けられた清長は、自分で自由に裁量するよりも家臣を代官にして直接幕府蔵に納めされたという、実直な性格を表わす好例である。
 このように数々の業績を残した清長は、歳七十九という高齢で没し浄安寺に葬られた。墓地の中央に清長の墓石(市指定史跡)があり、「慶長五子年(1600)十二月二十六日 快光院殿廓誉道鎮大居士」と刻まれているが、没年は慶長九年、慶長十三年説もある。
 なお、清長の城主在任中に上杉景勝の乱が起こった。この乱は、慶長五年に景勝が徳川家康に叛旗を翻したもので、家康は乱鎮圧のため江戸を発ち、浄安寺で一泊。征伐の途中、石田三成等西軍の挙兵を知り、関が原で合戦。大勝して徳川幕府を開くこととなった。この故事により慶長七年十一月、岩槻領箕輪村の内から六十二石余を朱印地として寄進された。

児玉南柯の墓

さいたま市指定記念物

浄安寺本堂脇に児玉家の墓所がある。この墓所の中央「無量寿仏」と刻まれた墓石が岩槻藩儒児玉南柯の墓(市指定史跡)である。南柯は諱を琮、字を玉郷(卿)、通称を宗吾、号を南柯といい、一般には児玉南柯で知られている。延享三年(1746)甲府で生まれた南柯は、武蔵武士の雄族豊島氏の後裔で、絵島生島事件として有名な江戸城大奥の年寄絵島が祖父の姉にあたる。
 宝暦六年(1756)岩槻藩士児玉親繁の養子となり、文武ともに早くから修練を積み、十六歳で大岡家に出仕。明和四年(1767)明和の変により元岩槻藩士山県大弐が斬首されると、累が及ぶのを恐れた岩槻藩は、大弐との関係を絶つために大弐の教えた闇斎学派から、幕府儒官林家の朱子学に換え、学才を認められた南柯は藩主直々の口入で昌平黌に入学。安永四年(1775)若君の素読相手となり、その後藩主の要職を歴任した。
 児玉南柯の名を一躍高めた事件が安永九年に起こった。当時郡奉行であった南柯に、岩槻藩領千倉沖に清国商船が漂着したとの報告が届いたのである。幕府は当座の処置を岩槻藩に命じたため、南柯は難破船を適切に処理。特に船長との会談は、それまで培った漢学の知識を傾注して筆談し、これを見た人々は「児玉氏これなく候得ば、万事相分り候儀これあるまじく」と、南柯の秀れた智力に感嘆したという。
 南柯は千倉までの漂流の経過、船籍、積荷、船員を調べ、幕府に報告、船員や積荷を陸揚げし、無事長崎から清国に還している。後日南柯はこの経過を『漂客紀事』としてまとめ、創刊している。
 その後も藩の要職を歴任したが天明八年(1786)前任者の公金横領事件が発覚し、南柯もその責任を問われたため、職を辞して自宅に隠居。これまで培った漢学の知識を生かし、藩内や領内の子弟の教育に専心。寛政十一年(1799)武士の居宅を利用して塾「遷喬館」を開き、文化八年(1811)郷学「せん穀堂」の開設にも助力した。文政十三年(1830)八十五歳で永眠。法名南柯斎槐誉一夢居士。
 浄安寺には南柯の遺品が数多く残されている。墓石の傍らには、南柯の徳を慕った友人や弟子から贈られた『戴恩柱』という墓誌があり、参道際には勝海舟篆額になる『南柯児玉先生遺愛之碑』、親交のあった加納久周から贈られた「さざれ石」、死後、従五位を贈られて建立された記念碑が立ち並んでいる。また同寺には『漂客記事』や村民教化のための『徳教篇』の版木が納められている。

児玉1
児玉2
児玉3

円空仏

さいたま市指定有形文化財

 

護法神像

像高86cm 仏法を護る役割を神という。
護法神像
 
 
 
 
善財童子立像
像高107cm
善財童子像
 

円空仏

二体の円空仏が安置されている。寛永九年(1632)美濃に生まれた円空は東日本一帯を巡り、布教するかたわら十二万体の仏像を作ったといわれる。円空の仏像は円空仏と呼ばれ、「鉈彫り」という独特な技法の彫像である。